| １、３月１２日（水） ──ピピピピピ……と、時計の、澄んだアラーム音が耳を打った。 「……！」 心地よい眠りの波をさえぎられ、不破鷹生は形の良い眉をひそめた。ブラインドのすき間から、早春の朝の光が降りそそいでくる。 「ん……」 腕の中で、九条暁人がかすかに身じろいだ。 その華奢な身体を引き寄せながら、鷹生は、柔らかな羽根布団からもう片方の手を延ばし、慣れた仕草で時計を探ってアラームを止めた。暁人は目を閉じたまま、素直にすり寄ってきて、お互いの肌がぴったりと密着する。 「……！」 その感触に、鷹生は眠気が一気に覚めていくのを感じた。 昨夜は、この暁人の部屋で一緒に過ごし、何度も愛を交わしたはずだった。なのに今、彼のきめ細かな肌と、清潔なさらさらの髪に触れているうちに、若い雄の本能は早くも回復し、うずき始めている。 そんな自分がひどく節操なく思えて、鷹生は想いを紛らわすかのように、暁人の耳たぶをそっと甘噛みし、ささやいた。 「まだ寝てろ。八時半だぞ。…なんでお前、休みなのに目覚ましかけてるんだ？」 「えっ……？」 ──とたん、暁人がはっと目を見開き、はじかれたように身を起こした。時計を見て叫ぶ。 「うそっ…！ うわあ、僕、行かなくちゃ！」 驚いて見つめる鷹生の腕から、暁人はすべり出ると、まだ眠たそうな顔のまま、それでも大急ぎでシャツを着始めた。その上気した肌には、花びらのように鷹生の残したいくつもの愛撫の痕が散らばっている。 「おい、暁……」 声をかけようとしたが、それより先に暁人がこちらを振り向いて言った。 「ねえ鷹生、君だって今日も、大学でコンチェルトのレッスンがあるんだろ？ もう行かなくちゃダメじゃない！」 「何言ってるんだ。教授の予定が急に変わったせいで、俺の方は、今日は夕方まであいてるんだぞ？」 あわててそう言うと、暁人は目を丸くし、それからとても恨めしそうな顔になった。 「……そんなの、僕、聞いてないよ！」 「え、なんだ、昨日話さなかったか……？」 言われて鷹生は、昨夜の、愛し合う前のかなりあやふやな記憶をたどったが、どうにもうまく思い出せなかった。 「聞いてないってば！ 第一、そんな暇なかったよ、聞いてたら今日……！」 そこまで言いかけて、暁人はひどく恥ずかしそうに口をつぐんだ。目をそらして、また大急ぎでシャツのボタンを留め始める。 ──その表情の愛らしさに、つい笑みを浮かべながらも、鷹生は今の言葉の先が、ひどく気にかかっていた。 鷹生と暁人は、ともに都内の名門私立芸大、青嵐学園音楽部ピアノ科の学生で、もうすぐ二年生になる。一年前に出会い、夏の始めに想いが通じ合ってからはずっと、恋人としてつき合っていた。 けれど最近、二人はすれ違いが続いていた。ピアニストとしてずばぬけた才能を持つ鷹生は、四月に開かれる都内の音大生の為のコンサートに、ソリストとして出演する予定だったし、さらにその後、いくつかのコンクールに出場することが急遽決まり、現在それらのレッスンと、アルバイトとでにわかに大忙しになってしまったのだ。特にコンクールのスケジュールが決まってからは、どうしても以前のように、毎日会うことは出来なくなっていた。 それに、暁人の方も、毎年恒例で三月始めに開かれた、卒業生の為の謝恩会コンサートに出演したり、実家に呼ばれていたりしていてけっこう忙しく、ようやく昨夜、お互いに時間を見つけ、十日ぶりに一緒に過ごせることになったのだ。 ──それで、暁人の部屋で久しぶりに顔を合わせたとたん、鷹生は思いきりその身体を抱きしめてしまい、暁人も激しくそれに応えてくれて、気がついた時にはお互い、むさぼるようにキスを交わしていた。……その後はもうひたすら、ベッドから一度も降りずに何度も愛を交わし、結局そのまま、心地よい眠りに引きずり込まれてしまった。 話したいことや聞きたいことがたくさんあった筈なのに、なんでこいつといると、いつもこうなるんだろう。この前、謝恩会コンサートの後に暁人を抱いた時もそうだった……。 その時のことが脳裏をよぎり、鷹生は思わず赤面し、首をふって身を起こした。 「……なあお前、随分急いでるけど、なんの用なんだ？ このところ、よく出かけてるみたいだな」 まだ少し腰を庇うようにしながら、ジーンズをはいている暁人の背中に、そっと声をかける。本当は、昨日、このことを聞くつもりだったのだ。 「えっ……」 暁人が、どきりとしてふり返る。自分の仕草がいぶかしく思われていることに、彼はようやく気がついたようだった。 「え、ええと。ちょっと、その……人に会いに行くんだ」 「……」 少し口ごもり、また目をそらしながらそう言う暁人を、鷹生はじっと見つめた。昨日、自分が何度も口づけた、華奢な首や頬、それに唇までが、真っ赤になっていくのがわかる。 「ほ、本当だよ。前からの約束だったから……もう行かないと。ね、ごめん、鷹生……」 言いながら、おどおどと目をそらす。その仕草に、急に苛立ちがこみ上げてきて、鷹生は手を伸ばし、その腕を掴むと、わざと乱暴に引き寄せた。 「わっ……！」 よろめいて、腕の中に倒れ込んでくる暁人の身体をぎゅっと抱きしめ、彼の唇に自分の唇を重ね、強く吸い上げる。温かな口中に、強引に自分の舌を差し入れた。 「んっ……」 暁人の肩が、びくっとした。昨夜のとは少しちがう鷹生の激しさに、戸惑っているようだった。が、その柔らかな舌が、細かく震えながらも従順に自分を受け入れ、おずおずと愛撫を返し始めたのを感じ、鷹生は今度は、情熱とともに、どうしようもなく後悔の想いがこみ上げてきた。つい、さらに奥まで差し入れようとしていた動きが鈍る。 「鷹生……」 ──結局、いつもと同じく、激しいけれど優しい、お互いの舌を味わうようなキスになって、鷹生はそっと唇を放した。暁人は息を弾ませながら、切なそうにこちらを見つめ、その引き締まった裸の胸に、軽く手をかけた。 「あの……ごめんね。どうしても今日は行かないと駄目なんだ。よかったら君は、夕方までここでゆっくりしていって……ね？」 少しかすれた声と、しっとりと自分の唾液で濡れた唇でそうささやかれ、鷹生はあやうくまた、想いがこみ上げそうになった。けれど、ひどく真剣な暁人の様子に、それ以上のことが聞けなくなってしまった。 「──ああ」 うなずいた鷹生に、暁人は明らかにほっとして笑顔になった。それから、大急ぎで作りつけのクローゼットから、仕立てのいい紺のダッフルコートを取り出してはおると、バックパックを肩にかけ、手をふって出ていった。玄関のドアが開閉する音が響いた。 「ちっ……！」 耳をすませ、彼の小さな足音が完全に聞こえなくなったのを確かめてから、鷹生は端正な顔をしかめ、思いきり舌打ちをした。 暁人は、絶対になにか俺に隠しごとをしている。 十日前、謝恩会コンサートの時に会った後、暁人は急に留守がちになり、自分に黙って外出することが多くなったのだ。 最愛の恋人の行動が、わからない──鷹生はそれが、どうにももどかしかった。 しかも、もっと情けないことに、自分はそれを彼に、直に問いただすことがどうしても出来ないでいた。 鷹生はそれこそ、暁人の様子がおかしくなったのには、すぐさま気づいていたのだが、暁人は、何故かそれを一生懸命自分に隠そうとしているのだ。 今もそうだった。必死な眼差しで見つめられた途端、鷹生は何も言えなくなってしまった。 まだ、本当の気持ちに気づいていなかった頃、自分は手前勝手な思いこみで、すいぶん暁人に辛い思いをさせてしまった。今、あいつが隠したいと思っていることを無理に聞き出して、また傷つけてしまったら……？ 「……！」 そこまで考えて、自分が本気でそれを恐れていることに気づき、きょっとした。思わず強く頭を振る。 一体、俺はどうしたのだろう。暁人と恋人になってから戸惑うことだらけた。 あいつと一緒にいると、いつも、何故かまともに頭が働かない。これまでなら簡単に、冷静にやってのけられたたくさんのことが、あいつにはどうしても出来ない。 こんな想いは初めてだった。五歳の時に親を亡くし、施設で育った自分が、誰かをこんなにも激しく恋するなんて、暁人に出会うまで思ってもみなかった……。 ──慣れていない幾つもの想いに、さっきよりもはるかに強い苛立ちがこみ上げて、鷹生はつい、すぐ傍の大きな羽根枕を掴み、床に叩きつけようとした。子供っぽいとは重々わかっていたが、どうしても八つ当たりしたくなったのだ。 「……！」 けれど次の瞬間、柔らかな布から、かすかに暁人の髪の香りが立ちのぼり、鷹生はどきりとし、思わずそっと、それをシーツの上に戻してしまった。 「…何やってるんだ、俺は」 情けない思いで全裸のままベッドから降りると、鷹生は、わざと荒々しい仕草で、ブラインドを一気に一番上まで上げた。さあっとあふれる朝の光に顔をしかめ、明るくなった室内を見回す。 暁人の部屋は、ゆったりとして、贅沢な造りのマンションだった。つややかに光る、床暖房の入ったフローリングの床。そこに置かれているこのダブルサイズのベッドや、ノートパソコンが乗った勉強机や、暁人の好きな本がたくさん詰まった本棚などの家具は全て、簡素だが質のよい木材が使われている。窓際には、暁人がまめに手入れをしている観葉植物の鉢がいくつも置いてあり、居心地のよい雰囲気を作っていた。一人暮らしを始めた時、母親が贈ってくれたものなのだそうだ。 あいたままのドアからは、広い居間と、そこに堂々と横たわる、スタンウェイ社のグランドピアノ、それにかなりグレードの高いステレオのセットと、液晶テレビ、それにＣＤやＤＶＤのたくさん詰まったラックが見える。その向こうはこぢんまりとした、設備の整ったキッチンだ。 「…はあ……」 それらをむっつりと見回した後、鷹生は最後に、ベッド脇の壁の、美しい天体写真が入った暁人のお気に入りのカレンダーを見やり、今度は思いきり、深いため息をついた。今日は３月１２日──ホワイトディまで、あと２日しかなかった。 |